1 立地と構造
栖吉城は、長岡市東縁部に位置する栖吉町の通称城山(標高335メートル)に築かれた山城です。本城と古城からなる一城別郭形態の城です。
城山の麓の栖吉神社と普済寺の2方向から登山道が延びています。栖吉城全体は切岸が高くて急峻ですから、登山道もこの切岸の斜面を歩くことになります。峠越え地点あたりで、城内への道と八方台(栃尾に抜けることができる)への道に分岐しています。主郭からは越後平野が一望できます。
2 古志長尾氏と栖吉城
築城期ははっきりしませんが、長尾孝景が築城したと推定されます。古志長尾氏は南北朝期に越後守護となった上杉憲顕に従って長尾景忠が越後に入国し、その弟景恒の子景春が、蔵王堂城を築いて拠点とし、その弟高景の子孫が守護代の職を代々継いでいました。信濃川の洪水の不安や周囲への威嚇など、戦略上から平城である蔵王堂城は不十分となり、孝景の代に栖吉に移ったと伝えられています。
栖吉は山麓に広大な寺領をもつ上杉祈願所の普済寺があり、管理には古志長尾氏がかかわっていましたし、後方に峻険な山脈、前方は中越後平野を一望できる要衝に適した地でした。
文亀3年、守護上杉房能と守護代長尾為景の間に下克上が起こり、房能は自決します。永正6年、房能の兄である関東管領上杉顕定が越後に進行すると孝景は顕定に味方し、蔵王堂城を攻め、主だった者百余人を討ち取り、数百人を信濃川に追い込み勝利します。
その後、為景は古志長尾氏や上田長尾氏と手を握り、同年6月、顕定を討ちとり、越後は平定されますが、為景の専横に反抗する上条定憲・宇佐見房忠等が兵を挙げ、越後は内乱状態になっていきます。為景は家督を子の晴景に譲って隠居します。その後、晴景は弟景虎(後の謙信)を古志郡司として栃尾城に派遣します。国内では景虎を国主に押す動きが起り、長尾房景・景信父子は景虎に味方します。
栖吉城主景信は国主となった景虎の側近として長く国政を支え、上杉の姓をおくられるようになるのです。
|
3 謙信の生母「虎御前」
長尾為景の後室となり、後に景虎(謙信)の生母となる青岩院の父が、長尾肥前守房景であるか、それとも長尾肥前守顕吉なのか諸説があるようですが、栖吉城主の娘という記載はどの資料もほぼ共通しています。通説では古志長尾家の房景の娘とされているようです。
本名は不明ですが、虎御前の名は、子の上杉謙信の幼名である虎千代に因んで、後世にそう呼ばれたとも言われています。信心に篤く、謙信の信仰にも影響を与えたと言われています。
為景の死後は仏門に入ってその菩薩を弔う余生を過ごしました。謙信が栖吉城主の娘の子であるという文献から推察すると、謙信が栖吉城で生まれていた可能性もあるかもしれません。謙信が急死すると、2人の養子である景勝と景虎が家督を争います。景信は上田長尾氏との対立もあり、景虎に味方しますが、居多浜の戦いで戦死します。
古志長尾氏の名跡は養子河田長親が継承しますが、その死去をもって家は断絶となりました。
栖吉城は、慶長3年の上杉会津転封まで存続しました。
|