1 大農業都市新潟の北区太田
数ある政令市の中でも、新潟市の食料自給率は群を抜いている。その役割を担う北区。中でもトマトは県内シェアの3分の1を北区で生産している。当校(新潟市立太田小学校)の屋上から内陸側を眺めると、福島潟を囲み広大な水田が広がる。反対に海側を眺めると大きなビニルハウスの棟があちこちに見える。先人による福島潟の水との闘いの末、現代の人々にもたらされている豊かな農地である。
2 盆踊り「サイサイ」の分布が語るものは
旧豊栄市(現新潟市北区)と新発田市の一部に「サイサイ(踊り)」と呼ばれる盆踊りがある。太田コミュニティでは、長く休止されていた「サイサイ」を10年ほど前から、校庭や地域の農村公園などを会場に復活させている。コミュニティの古い広報誌に下のような図があった。有志が聞き取りした盆踊りの調査である。「サイサイ」は福島潟周辺の集落で踊られている。これは何を意味しているのだろうか。
3 福島潟周辺集落の統治の歴史
私の前任校は、新発田市の佐々木小学校で、行政区は新潟市と新発田市と別ではあるが、校区としては隣接している。福島潟周辺集落全てについて調べる時間がなかったので、この2つの校区の集落を中心に探ってみた。
『阿賀北・岩船ふるさと百科』(郷土出版社)という文献に、「サイサイ踊りの由来としては明治の中頃、新発田市の下興野で踊りはじめられたという。そして、村々に伝播し、根付き改良された。」とある。江戸末期から明治の中頃まで、福島潟周辺はどのように統治されていたのか。
図の△印のついている集落(「サイサイ」を踊っている集落)は、明治11年の郡区町村制施行時には波線で囲まれた地域が1つの行政区であった。その10年後の市町村制施行には、佐々木・上中沢・曽根・則清は、一緒になって旧佐々木村となる。「サイサイ」が広まっていった時代は、△印の集落が、同じ行政区であり続けた時代であった。しかし、それだけで同じ踊りを100年以上も守り続けられるものだろうか。
4 新太田川を造った「山本丈右衛門」と葛塚地区
1755年に、当時の著名な土工家「山本丈右衛門」が、下興野から福島潟に流れ込んでいた太田川(今は古太田川と呼ばれている)を手前でせき止め、新太田川を造った。新発田藩は新太田川(太波線部分)の完成に伴い、干上がった土地が広大となったものの、この土地を開墾するには経費も莫大になると考え、これを払い下げた。丈右衛門には優先的に無償で350町歩を与えた。
この干拓地こそ葛塚郷であった。また福島潟周りの古村にもその周辺を優先的に払い下げた。新太田川には紆余曲折があったものの、福島潟北部一帯の耕地を潤すことになった。
福島潟北部一帯とは、「サイサイ」が伝えられている地域と重なるのではないか。
5 丈右衛門死後の農民の団結
開墾の志半ばで丈右衛門は没するが、飯島新田孫右衛門(佐々木小学校区)と、太田興野松之助(太田小学校区)を総代にたてて、丈右衛門の小作人たちは彼の後請負を申し出た。小作人たちが自らの手で開墾作業を申し出た意気込みは、その後新たに田を開いてきた地域の人々に脈々と伝わっているのではないだろうか。そう考えると、「サイサイ」は田を開いていった同じ村の衆という強固な団結の象徴であり、移住してきた人々の、大事な出会いの場であったのであろう。
今年の夏も、新発田市の佐々木小学校区と、新潟市の太田小学校区で「サイサイ」の太鼓が鳴り響く。
福島潟のほとりの開潟神社には、山本丈右衛門が祭神としてまつられている。 |