1 月岡温泉の開湯
昔、学区内の月岡地区は小烏(こがらす)という地名で呼ばれ、住人はほとんどいなく、一面の雑木林の丘だったという。明治維新後の文明開化という急速な西欧化の大波がやってきても、原野が広がるだけの土地だった。月岡地区が脚光を浴びるようになるのは、まだまだずっと先のことである。
西洋文明の象徴とも言うべきランプの普及とともに、燃料の灯油の原料である石油が注目されるようになると、新潟県内各地でも油田開発が盛んに行われるようになった。
石油ブームの到来である。明治40年には、日本の産油量の8割以上が県内の油田から掘り出されている。化石燃料は、地下に無限に埋蔵されているわけではない。明治40年をピークに県内の石油産出量は下降線をたどることになる。それを解決するため、有望な油井を求めて、県内外で試掘が行われるようになった。
大正に入る頃には、月岡地区にも油井を掘る櫓が立ち並ぶようになった。産出量としては、それほど多くはなかった。そして、その時は突然にやってきた。
大正6年、月岡地区で掘削中の井戸から突然お湯が噴出したのである。深さ250メートル、温度は50度を超え、塩分と硫化水素を含んでいた。「お湯の下には、石油はない」と言われていたため、それ以後、月岡地区での油井掘削は下火になっていった。そして、石油会社にとっては迷惑千万のこのお湯をもとに共同浴場が月岡地区に開設された。この共同浴場が月岡温泉の実質的な始まりである。
2 月岡温泉の栄枯盛衰
戦前の共同浴場、温泉宿という湯治場的存在から、戦後は観光地化に向けて大きく方向転換した月岡温泉。そして、それは月岡温泉にとって苦闘行脚の時代でもあり、最も希望にあふれた時代でもあった。全館内湯化、そして、個室の拡大。観光キャラバンなどの宣伝活動の効果もあり、県内外から大勢の観光客が月岡温泉にやってきた。
そうした中で、月岡温泉の知名度を飛躍的に高めた最大の要因は、月岡ヘルスセンターと動植物園(行楽苑、後に月岡ランドと改名)の設立である。時まさに日本の高度経済成長期である昭和34年のことである。
その後、昭和51年の上越新幹線の開通、昭和60年には関越自動車道が開通し、いよいよ高速交通時代の到来。全国的な温泉ブームもあリ、「美人になれる湯」として泉質の良さが全国に知れ渡っていた月岡温泉には、観光客が連日のように押し寄せ、旅館・ホテルは平日でも常に満室状態だった。忙しさで芸妓さんが悲鳴をあげるほどであった。今では想像もできないバブル期の一コマである。
しかし、ときは流れ、時代は変わる。平成時代に入り、バブルははじけ、景気低迷・経済不況・少子高齢化・核家族化・高度情報化などの社会的・経済的に急激な変化を迎え、観光客の嗜好も旅行形態なども変貌し、月岡温泉は苦戦している現状にある。しかし、ピンチはチャンスでもある。全国有数の温泉地である名湯『月岡温泉』の今後の大いなる挑戦と飛躍、発展を期待したいものである。
3 月岡温泉と東日本大震災
3月11日、未曾有の巨大地震と巨大津波が東北地方で発生。そして、追い打ちをかけるように福島での原発事故の発生。原発の安全神話が崩れた瞬間でもあった。二次避難先として月岡温泉では約400名の被災者を受け入れた。一日も早い震災復興を祈るばかりであるが、月岡温泉自慢の「おもてなしの心」も十分に満喫してもらえたものと確信している。
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