1 国境の町塩沢
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」は、川端康成の『雪国』の書き出しである。この「長いトンネル」が完成する以前は、三国峠が関東と越後の国境であった。
その峠を越える軍用道路として上杉氏により清水街道とともに整備されたのが三国街道である。塩沢は、その宿場町であった。謙信も関東に出陣する際に滞在したとの記録が残っている。
2 旅人で賑わう塩沢宿
やがて江戸時代になると、塩沢は幕府直轄地(天領)となり、佐渡から移り住んだ井口氏一門が塩沢58カ村(湯沢町、旧塩沢町、旧六日町の一部)の肝煎(庄屋)を務めた。そして、佐渡鉱山で培った技術を使って、新田開発と三国街道の開削を進め、塩沢は江戸から佐渡島への最短交通路の宿場町として賑わうのである。
この時期に、魚野川等の荒地開拓の働き手として他地域から多くの人々が国境を越えて移り住んだ。特に上州(群馬県)からの移住が多く、「林、宮田、南雲、笛木、板鼻、細矢」など、吾妻郡や新田郡を出身地とする姓が今も数多く残っている。こうして移住してきた人々は、積極的に新田開発に努め、今日、コシヒカリを産する水田の多くも、この頃(17世紀前半)の新田開発に由来する。
3 『北越雪譜』に描かれた雪国塩沢
やがて三国街道はさらに整備が進み、塩沢には、代官が居住する陣屋が設けられる等、この地域の経済の中心地として発展していく。
街道を往来する大勢の旅人を経由し、塩沢では最新の江戸文化に直接触れることができた。また、商業地であったため、地域の寺子屋に通って「読み書き算盤」を学ぶ子も多かった。
その最盛期(明和7年)に、『北越雪譜』の著者である鈴木牧之は塩沢に生まれ、73年間の生涯を過ごしたのである。牧之の生家は、質屋や縮商いを手広く行い、繁栄していた。
縮(ちぢみ)は、小千谷・南魚沼に伝わる上質な麻織物である。原料の芋麻から糸を紡ぎ、独特のしわを出す「糊落とし」、布を漂白する「雪さらし」等、製作に手間がかかり、主に女性の副業として家計の支えとなっていた。
『北越雪譜』の「雪中花水祝(せっちゅうばないわ)い」「鳥追い櫓(とりおいやぐら)」「斎神祭(さいのかみまつり)」「雪中芝居(せっちゅうのしばい)」など、多様な冬の娯楽の描写から、生産高が20万反を超えた縮の生産・販売等により、経済的にも豊かであった塩沢の姿が目に浮かぶ。
その他、『北越雪譜』には川が積雪のためにふさがれ、あふれた水が人家を襲う「雪中の洪水」や、カンジキやスガリ等の雪の上を歩く用具を説明した「雪中の歩行」、豪雪の地で忍耐強く生活する様子を記述した「雪籠もり」など、江戸の人々が知らない雪国の生活が生き生きと描かれている。
当時、爛熟期を迎えていた江戸文化にコンプレックスをもたず、むしろ積極的に雪国の文化を発信しようとした牧之の心意気に驚く。
天保8年に出版された『北越雪譜』は、たちまち江戸に656軒あった貸本屋に買い取られるほどのベストセラーとなった。人々は、巧みな文章と挿絵に描かれた雪国の生活に、さぞ驚嘆したごとだろう。
4 塩沢宿ふたたび
江戸幕府の瓦解、そして明治の世になると、宿場町塩沢は、停滞の時を迎える。鉄道の建設ルートからはずれ、人や物資の輸送から取り残されたからである。また、縮も洋服の普及による着物離れ等により需要が激減し、生産・販売は衰退する。
後年、住民の悲願であった上越線、そして新幹線や関越高速の開通により、南魚沼の観光開発が一気に進み、町並みは一変した。当時の家並みを再現した「牧之通り」の雁木や格子窓に、多くの旅人が行き交い、雪国文化が花開いた塩沢宿の往時を偲ぶことができる。
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