幕末の名匠と言われ、「越後のミケランジェロ」と称えられる石川雲蝶。そのノミから彫り出される作品は、息をのむ素晴らしさ。
魚沼市には、石川雲蝶の代表作と言われる数々の作品が残されています。
石川雲蝶
石川雲蝶は、本名を石川安兵衛といい、1814年、江戸で生まれました。20代で、江戸彫石川流の奥義を窮め、すでに彫り物師として名を馳せていたようです。
越後入りしたのは30代。三条本成寺の世話役だった内山又蔵氏の依頼を受け、三条を拠点に活動するようになりました。その後、内山氏の世話で、三条の酒井家へ婿入りし、名実ともに越後人となりました。
ノミを握れば神業的な作品を残す雲蝶でしたが、破天荒の逸話もたくさん残っています。「良い酒とノミを終生与える」ことが越後へ来る条件と伝えられているように、無類の酒好きだったようです。また、賭場へ通うほどの博打好きだったとも言われています。
西福寺開山堂(旧小出町)
1852年に起工し1857年に完成した開山堂は、23代住職大龍(だいりゅう)和尚が、前住職の「雪深く貧しい農村地域の人々の心のよりどころとなるお堂を建てたい。」という意思を引き継ぎ、「お釈迦さまや道元禅師の教えが多くの人の心を幸せに導く。」と信じて、道元禅師の世界を表現してほしいと雲蝶に依頼したものです。歳の近い2人はすぐに意気投合し、雲蝶は、大龍和尚の思いをよく理解して、圧巻ともいえる作品を残しました。
堂内の天井一面に施された彫刻「道元禅師猛虎調伏(ちょうふく)の図」は、雲蝶が1人で手掛けた初めての大作でした。極彩色豊かな透かし彫りで見る者を圧倒する代表的な作品です。
永林寺(旧堀之内町)
雲蝶との出会いについて、次のような逸話が残っています。
それは、老朽化した本堂を再建するために奔走していた22代弁成(べんしょう)和尚が、金物類の購入に出かけた三条の賭場で、賭け勝負をしたというものです。賭けは「雲蝶が勝ったら金銭を支払い、弁成和尚が勝ったら、永林寺の本堂いっぱいに力作を手間暇惜しまず制作する。」というものでした。
結果は、弁成和尚が勝ち、雲蝶は1855年から13年間滞在し、彫刻や絵画など、多数の作品を残しました。
作品は総じて彫りが深く、独特の構図で、独創的な作品に仕上がっています。中でも、欄間に施された「天女」の透かし彫りは、あまりにも有名です。
神がかり的なノミさばきで生み出された量感あふれる作品は、言葉を失うほど美しく、まさに、問答無用の素晴らしさです。また、雲蝶の作品は、木彫りだけでなく、絵画や石彫などにも、その才能が発揮され、それらの作品も、西福寺開山堂と永林寺には数多く残されています。
好きな酒ばかり飲み、博打好きという破天荒な気性の反面、ひとたびノミを握れば「彫りの鬼」と化し、一心不乱に作品と向き合ったと言われる石川雲蝶。その生き様は決して優等生とはいえないものの、人間味溢れる魅力的な人柄だったのではないでしょうか。
残された作品やエピソードから、雲蝶の人間像に想いを巡らせることも面白いと思います。 |