幕末胎内市には多くの無形、有形文化財があります。その中で「城の山古墳」と「臭水油坪跡」につい
て紹介します。
○城の山古墳
城の山古墳は胎内市大塚にあり、4世紀前半の古墳です。古墳の規模は、県内で3番目に大きく、長径41 メートル、短径35 メートルの楕円形の円墳で、高さが5メートルあります。
地元では、昔からこの古墳を「ひと籠山」と呼んでいたそうです。
地域住民が大切に守ってきたことにより、盗掘などによって荒らされた様子は、ほとんどありません。
調査は、平成9年から始まり、これまでに6回行われました。その結果、長さ8メートルの舟形木棺をはじめ、銅鏡やひすいの勾玉、緑色の凝灰岩でできた管玉、大刀や弓、矢を入れる革製の筒「靫」に塗られていゆきた黒の漆も確認されています。
特に、銅鏡は直径約10 センチメートルで龍を浮き彫りにした「盤龍鏡」と呼ばれるもので、後漢か魏の時代に中国で作られたものです。また、古墳より100 年から200 年以前のもので、近畿地方から胎内へ持ち込まれたものと考えられます。
これらの副葬品は、近畿地方の大和政権の古墳から出土した副葬品と同じような組み合わせになって
いることも確認されました。
今回の調査によって、従来、大和政権の影響が及んでいた日本海側の北限は能登半島までと考えられ
ていましたが、新潟県北部までその影響が及んでいたことを示すものと考えられます。
○臭水油坪跡
臭水とは原油のことで、越後では古来から、臭水を灯火として利用していました。
日本書紀に「越の国から燃える水、献上」とあるのは、胎内市黒川といわれ、国史跡「臭水油坪跡」として整備されています。黒川(旧黒川村)という地名は、臭水が自然に地表に湧き出て、あたかも黒い川が流れるほどであったことに由来しています。黒川地区には、多くの油坪跡が残っており、現在でも臭水や天然ガスが湧き出ています。また、明治6年にイギリス人シンクルトンが掘った井戸も残っており、シンクルトン記念公園として当時の様子を知ることができます。黒川地区では、昭和58 年から毎年、7月1日に「黒川燃水祭」が開催され、石油業界関係者、地域住民、黒川小学校児童が参加して「採油の儀」「点火の儀」など一連の伝統儀式が行われています。さらに、滋賀県近江の都の天智天皇に臭水を献上した様子を再現する献上行列も行われています。
今年度も胎内市教育委員会が、市内全小学5年生を対象にした「ふるさと体験学習」が学校毎に実施されます。当校5年生とともに地域の歴史や文化を学び、その時代をたっぷりと想像したいものです。 |