佐渡島に匹敵する面積を有し、その多くが森林に覆われた自然豊かな東蒲原郡は、明治19年まで700年もの間、会津に属していました。故に、地理や歴史、暮らしや文化などに越後と会津双方の影響が色濃く残る地域です。
峡谷をぬける大動脈
つい先日、紅葉も盛りの11月に阿賀野川をカヌーで下りました。この夏に、郡校長会チームがレガッタ大会に挑戦した様子がテレビで放映された津川漕艇場から、深い谷間を行く旧国道49号線に沿った約5キロメートルの間です。ちょうど通りかかったSLばんえつ物語号の白い煙が、紅葉の山肌に消えていくのを眺めながら漕ぎ進みました。
江戸時代には、会津側と越後側を結ぶ水運の大動脈であった阿賀野川は、近代化の進む中でも役割を変えながら時代の変遷にかかわってきました。明治の草倉銅山、電力の大供給源となった豊実ダムや鹿瀬ダムなどにです。
大牧の赤い鳥居を右にやり過ごし本尊岩が近づいてくると、左手に昭和橋の橋脚が見えてきました。中学生の頃、この橋を渡って左岸の沢筋に、石灰岩中のフズリナの観察に行ったのを思い出しました。周辺の石灰岩は、鹿瀬地区の昭和電工に運ばれ、昭和期の地域の隆盛に寄与していたのです。
体験した何度かの川下りを合わせると日出谷付近から咲花までの風景を全て川面から眺めたことになります。峡谷を下る阿賀野川の素晴らしさを「廃嘘なきライン川」と賞賛した、明治初期の旅行家イザベラ・バードの気分を今でも味わうことができました。
峰の窓を越えた人々
山間地の東蒲原郡には、数多くの峠があります。その内の1つ諏訪峠を越える殿様街道を久しぶりに歩いてみました。江戸時代の新発田・村上両藩の殿様が参勤交代の際に通った道です。十返舎一九、山県有朋なども越えました。冬に難儀をして通り、「雪深く路険し」といった内容を記した吉田松陰の石碑が建つ諏訪峠から三川地区行地の一里塚まで降り、津川地区柳新田の一里塚まで登り返す行程です。それぞれに残る2個1対の小山ほどの一里塚は、完全な形で保存され貴重な史跡となっています。
所々に残る当時のままの石畳をたどり、黄葉したブナの樹間から白く輝く飯豊連峰の眺めを楽しみました。早春に歩いた時にはカタクリやギフチョウが、初夏にはオオルリのつがいが間近に飛び交い、茶屋跡付近からは赤い花の咲く高木が見えました。峠を行き交った昔の人々の疲れを癒した景色が、今も残ることを嬉しく思いました。一里塚の間を万歩計で計ってみると約6100歩で、1歩約65センチメートルとして4キロメートル程になります。江戸までの街道を歩き通すとはたして何歩になるのでしょうか。
時代をつなぐ道をいつまで
阿賀野川周辺には、「会津裏街道」と言われる道もあります。私の実家のある鹿瀬地区豊実の
馬取
という集落から西会津町奥川杉山集落に抜ける
楢木
峠には、「
上様御小休所
」の石碑が残っています。よく踏まれた山道なのですが、この春訪れた時には沢沿いの路肩が崩れている所もありました。地元の人たちが毎年行ってきた整備作業が、高齢化で行き届かなくなったようです。
阿賀野川の支流、
実川
上流の実川集落から会津方面に抜ける街道には、飯豊連峰の最高峰・大日岳が指呼の間に迫る
万治
峠があります。実川集落には、山村農家として国の重要文化財に指定されている五十嵐家住宅があり、画家の小川
芋銭
や文部大臣を務めた安倍
能茂
など多くの文人墨客が滞在しました。ゆかりの書や絵画を見せていただく研修の機会がありましたが、山深い地にあっても高い文化の香りがしました。
上川地区から福島県への峠もいくつかあります。今年五月に歩いた、サンカヨウの清楚な白い花が盛りだった
大倉
峠は、隣の
九才坂
峠と共に上川地区と西会津町
安座
を結ぶ主要生活道路として、昭和20年代まで多くの人々が往来していました。九才坂は、弘法大師が9歳の時に越えたとの伝承がある、樹林の中をつづら折りに登る落ち着いたたたずまいの山道です。
また、
常浪
川上流の1000メートルを超える地点にある塩の倉峠には、最近新潟県側が完全舗装された峰越林道を使って、昨年の秋に久しぶりに行きました。峠の西側には、保護運動によって伐採を免れた300ヘクタールを超えるブナの巨木の森が黄金色に広がっていました。
これらの東蒲原郡の宝を知れば知るほど、末永く残したい素晴らしい財産だと強く思います。
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