八百年前に行われたと言われる実験である。
神聖ローマ帝国の皇帝フリードリッヒ二世は、「人間の子どもは生まれつき言葉を知っているのだろうか」と疑問を抱いた。そこで、生まれたばかりで捨てられた赤ちゃんを五十人集め、保母や看護師に養育させることにし、その時、赤ちゃんに話し掛けたり、あやしたり、抱いたりしてはいけないと厳命した。入浴や食事など生命維持に必要なこと以外、人間的接触を禁じたのである。
この実験の結果は出なかった。なぜなら、赤ちゃんがあまり大きくならないうちに全員死んでしまったからである。人間は、人間的なかかわりがないと生きられないことが明らかになったのである。
コロナ禍の影響で、これまで国際的に遅れを取っていた教育現場のICT化が加速している。年度内に日本中の小中学生にタブレット端末が配布されることは、個別最適な学びの実現に向けて大変好ましいことである。ただし、劇的な変化に直面した時には、本質を見極めて進むことを心しなければならない。
教育の本質は何か?教育基本法の第一条には、「人格の完成を目指し…社会の形成者として必要な資質を備えた…国民の育成…」と示されている。つまり、教育の目的は、社会的自立のための人格形成であり、それを目指して子どもたちを導いていくことが、教育の本質と言える。新学習指導要領に示された三本柱も、究極の目的である人格形成を目指して行われなければならない。
本年度は、どの学校も教育の本質を問いながら、感染防止と教育活動の両立に試行錯誤する日々である。当校では、児童会祭りの実施方法について、次のような議論が展開された。
一、従来通りの縦割り班(十名程度)で各ブースを巡回する。
二、各クラスの出し物を録画配信し各クラスで視聴する。
この二つの案のどちらを採用するかで議論は白熱した。結果、感染防止策を工夫しながら一案で進めることとなった。決め手は、児童会祭りの目的の一つである「学年を越えたかかわりを深める」ことの教育的価値であった。
一方、ICT化の象徴とも言えるオンラインによる教育活動の効果を実感する場面も少なくない。一例を挙げれば、遠方の学校とのオンライン交流である。当校では、時差の少ないオーストラリアの都市パースの日本人学校や現地校とのオンライン交流を開始した。委員会や外国語科の時間を活用し実施しているが、物理的距離を克服し、多様な同世代の子どもたちとつながりを持てることは、教育のICT化の大きな効果である。
しかし、オンラインもタブレット活用も教育の目的達成のための手段である。手段の目的化に陥ってはならない。授業中にタブレットばかり操作し、互いの表情を感じ取りながら聴き合い話し合う活動が疎かになっては本末転倒である。
仮に八百年前に、タブレット端末があり、かの実験で画面上の間接的接触が許されていたとしたら、赤ちゃんは生き延びることができたのだろうか…。我々は今、失敗が許されない壮大な実験のスタートラインに立っているのである。 |